眞喜屋 志恩 Makiya Shion
昭和薬科大学附属高等学校2年。
高校ディベート部
第27回九州地区高校ディベート選手権準優勝。
第27回全国高校ディベート選手権ベスト16
皆さん、こんにちは。「ディベート部の眼」第8弾です。 今回は高校二年生のディベート部部長による記事となります。テーマは今年の五月に可決・公布された「刑事訴訟法等の一部を改正する法律案」を受けて「保釈された被疑者をGPS情報によって監視することの是非」についてです。犯罪被疑者とは言え、推定無罪の原則によって守られる個人がその位置情報を国家によって把握されるということがどういうことなのか、海外に取り入れられているGPS監視の例も挙げながら考えてみたいと思います。これからの日本はどういう国を目指すのが良いのか、一緒に考えてみませんか。
カルロス・ゴーンの衝撃
2019年12月、金融商品取引法違反の疑いで取調中だった日産自動車の元最高経営責任者(CEO)であるカルロス・ゴーンが国外逃亡をしたニュースは、世界的に大きな波紋を呼んだ。彼は、厳しい警備体制の中、国外逃亡という誰もが想定しなかったことを成し遂げたのである。なぜ捕まっているはずの彼が国外逃亡することができたのか、それは、日本の刑事制度の一つである『保釈』と深く関係している。
保釈
保釈とは何か。現在日本では、警察が身柄を確保し最長23日間被疑者を勾留することができる。しかし、我が国の刑事制度では『推定無罪の原則』のもと、いかなる人も有罪判決が下されるまでは犯罪者として扱われない権利を有する。
身柄を拘束され続けることは、被告人にとって著しい不利益をもたらすため、未だ犯罪者と断定できない被告人が著しい不利益を被らないように勾留期間が過ぎる、または勾留期間中に一定条件を満たせば、一時的に身柄拘束が解かれる『保釈』が存在するのである。
保釈中の逃走
しかし、近年保釈中に逃走を図ったり、あろうことか再犯をする者までもが増加しているという。犯罪白書2020によると、令和元年における保釈中に再犯を犯した者は285人であり、これは決して無視できない数である。保釈中の逃走に関しても、カルロス・ゴーンに始まったわけではなく、わが国の司法はこの問題に対して、長年効果的な予防策を取ることができていなかったのである。
保釈中のGPS
そこで、政府は、2023年5月10日、保釈中の被告に、裁判所が衛星利用測位システム(GPS)端末の装着を命令できる改正刑事訴訟法を成立させた。
つまり、保釈中の被告が逃亡することを防ぐために、被告を監視するのである。といっても、四六時中監視されるわけではない。現段階で議論が進んでいるところによると、 「位置情報は常時検知されるが、裁判所に信号が送られ当局が情報を閲覧できるのは空港や港など「所在禁止区域」への立ち入りや端末が外れた場合に限られる。」とされているので、日々の生活状況までもが監視の対象というわけではない。
また、保釈される被告人のすべてにGPS足輪が装着されるわけでもない。裁判所が、海外逃亡を図る可能性がある、と判断した場合や、危険な犯罪因子を持っていたり、累犯者であったりして、犯罪を犯す可能性が高い場合に、つけられるのである。
この法律は、これまで日本では全く行われてこなかった取り組みであり、日本国内では実証実験すら行われていない。しかし、実は海外では30年以上も前からGPSによる監視が行われてきた。そのため、ここでは海外の事例を取り上げることにより、これから日本でも行われていくGPS監視について理解を深めていこうと思う。
まず、世界ではどのような国がGPS監視を実施しているのだろうか。たとえば、アメリカやブラジル、またEU内だけでも18か国もあり、アジアでは、イスラエル、韓国、台湾、シンガポールなど、意外にも、先進国や新興国と呼ばれる国の多くで実施されている。しかし、どの国においても、GPS監視の対象者は保釈中の容疑者ではなく、実刑判決が下され、刑務所に収容され、刑期を終えて社会に復帰する人々である。
ここからはアメリカと韓国の2国を具体例として、GPS監視の益と害について触れる。
アメリカ
先程触れたように、アメリカでは保釈中の者が対象ではなく、犯罪者だと確定し刑期を終え出所する者をGPSで監視している。罪種は主に性犯罪であり、これは性犯罪者による再犯率の高さと、その被害の深刻さからのものである。たとえば、小児性愛の性的倒錯が見られると裁判所が判断したものには、保育園や幼稚園など、児童が集まる施設の近辺を進入禁止区域として設定し、仮に侵入した場合には警察が対応しに来る、というようなケースが考えられる。さらに、ただGPS監視を行っているだけではなく、その位置情報を姓名、顔写真付きでネット上に公開している。専用のサイトを使えば、どの性犯罪者がどこにいるというのが一般人でもわかる制度となっている。
上:ネット上の専用ウェブサイトでニューヨークに住む性犯罪者と検索をかけた結果。
下:一つ一つのピンをタップするとこのように性犯罪者に関する情報を 閲覧できる。
https://www.familywatchdog.us/
GPS監視と犯罪者の個人情報公開によって、再犯率は減少した。例えばフロリダ州では、矯正局を出所してから2年以内の再犯率が、11%から6%に減少したという。この話だけを聞くと、GPS監視とは国民を犯罪から守る素晴らしい技術に思えるかもしれない。
しかし、実際に導入をして明らかになったこともある。それは、GPS監視の対象者が、著しい社会的烙印(スティグマ)※1の対象となってしまい、刑務所から釈放された人々が社会復帰することが困難になってしまった、ということである。というのも、そもそもGPS監視の機器とは、足輪型であり、対象者が機器を破壊しないよう堅く施すために、サイズはそれほど小さいものとはなっておらず、ズボンの下にあっても常に隠せるわけではない。そのため、他者からみると、その人があからさまに性犯罪者であることがわかるのである。当然、犯罪者であるというステータスは、住居探し、就職、地域社会との交流など人間が行うあらゆる社会的活動を行うことを格段に難しくする。その結果、犯罪者は社会から孤立してしまったのである。
韓国
韓国もアメリカと同様、主に性犯罪者に対するGPS監視を行っており、その位置情報を名前、顔写真付きでネット上に公開している。結果、韓国では、著しく再犯が減少した。韓国法務部の資料によると、GPS監視を行う前と後で、性犯罪の再犯率が1/8に減少したという。しかし、アメリカ同様、GPS監視の対象者は社会に馴染むことができなくなってしまった。中には、GPS機器という負のスティグマが周囲に知られるのを恐れ、引きこもりになってしまったり、最悪の場合自殺に至ってしまう人もいた。罪を反省し、社会復帰していくはずだったが、実際に社会に出てみると、自分にはどうすることもできない足輪によって、他者から犯罪者だとばれてしまい、地域社会との交流はおろか、仕事にもつけず、家を確保することも容易ではない。その結果、生活基盤を確保することができなかった出所者たちは、自殺する、という選択を取ったのである。それほどまでに、社会復帰することができない、つまり、社会から疎外されるというのは、人に大きな精神的ダメージを与えてしまうのである。
GPSの行方
これまで海外の事例を見てきたが、今回紹介していない国も含めて、そのすべてが、罪を犯して、刑務所で刑期を経て、釈放される元犯罪者たちをGPS監視の対象としている。一方、今回日本で可決された案では、保釈中の人に対してGPS足輪をつけ、海外に逃亡することを防ごうとしている。もう一度確認するが、保釈中の人とは、まだ犯罪者であると断定されていない人である。つまり、罪を犯していない人間に、社会から疎外される大きな要因となりうる足輪を装着させるのである。本来保釈とは、まだ犯罪者と確定していない被告人が著しい不利益を被らないために始まった制度であるのにも拘らず、社会生活を営む上で大きな障害となりうる足輪を着用させることは、はなはだ本末転倒である。確かに、現法上は保釈される全員に足輪着用の義務があるわけではないが、誰に足輪をつけるかを判断するのは裁判所であり、その時点で国外逃亡や犯罪を犯しそうな人と、そうでなさそうな人とを差別しているのであって、これは日本国憲法第14条で謳われる法の下も平等という観点からみても許容できない。
しかし、である。保釈中の被告人による犯罪を無視してよいわけではない。性犯罪、強盗、殺人、暴行等いわゆる凶悪犯罪と呼ばれる犯罪について、その被害に軽重をつけることはできず、いずれも被害者やその家族、関係者にも大きな精神的ショックや絶望を与える。そのため、そのような犯罪を一件でも少なくしていくことが、国民に安全・安心な生活を保障する政府の役割であり、責務でもある。
他の観点として挙げられるものは、一度でもこういった著しい人権制約的な制度を導入することによって、日本の刑罰の在り方が欧米的な考えに基づいたものへと変わってしまうおそれもあるということである。
海外のように、日本でも刑務所から釈放された犯罪者たちにまでGPS足輪がつけられてしまう日が来るかもしれない。
日本という国から犯罪を減らしていくことと、犯罪者であると断定されていない者の人権を守ること、どちらを優先するべきであろうか。この質問は、政府の官僚たちだけではなく、国家の主権者である国民が積極的に思考し、意見を出し合い、その答えを模索していくべきものである。そのときには、単に犯罪者に人権は必要ないといった稚拙な考えではなく、日本という国が、どのような国であって欲しいかであったり、日本人というものが、どういったものであって欲しいか、ということを考えなければいけないのではないだろうか。